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史跡めぐり

6月14日 定例会議資料

「浦安」とは  wikipediaより抜粋。
 浦安市は日本橋から東南東の直線距離で12kmにある、千葉県北西部に位置します。
2018年4月時点で人口は約17万人で東京都区部への通勤率は約50%と都のベッドタウン。東京ディズニーリゾートの在ることで知られる。
隣接自治体は市川市と東京都江戸川区。西に旧江戸川が流れ江戸川区と接する、旧江戸川の三角州及び埋立地からなる。
 近代以前は「行徳」と呼ばれた一部。1157年(保元2年)に現在の市内に集落が誕生。1603年(慶長8年)堀江・猫実(ねこざね)・当代島の3村が天領に。
1873年(明治6年)千葉県に編入。1889年(明治22年)に堀江・猫実・当代島の3村が合併し浦安村になる。
 「浦安」の地名は、初代村長が「浦(海)やすかれ」と言ったのと、心安らかにという願いが込められたものとされる。『日本書紀』第3巻「神武記」の一節に「昔、伊弉諾尊この国を名づけて曰く、日本は浦安の国」と記されており、浦安は日本(大和)の古称・美称でもある。
 1958年(昭和33年)に江戸川上流にある本州製紙江戸川工場からの悪水放流による漁業被害が発覚し騒動になった。
これを契機に日本初の水質規制に関する法律が制定されたことで有名。その後、漁業が振るわず1964年(昭和39年)海面埋立事業が開始。 1969年(昭和44年)営団地下鉄東西線が開通。1974年(昭和49年)オリエンタルランド(デズィニーランド経営会社)の遊園地計画を県が承認。1978年(昭和53年)首都高速道路湾岸線新木場-浦安出口開通。1983年(昭和58年)東京ディズニーランドが開業。1988年(昭和63年)JR京葉線開通。

行徳塩田   wikipediaより抜粋。
 江戸から近代を通じて下総国(千葉県)行徳(現在の市川市行徳地区及び浦安市)とその周辺地域に設置された塩田。
 徳川家康の所領に組み込まれた。当時は戦国の遺風が残り、家康も江戸城における籠城の際に塩を確保するために自領内での塩の安定供給に尽力しており、行徳を御手浜としてこの地の塩業を保護した。
 行徳は東金に向かう街道のルート(行徳街道)として定められ、後には江戸から成田山新勝寺への参詣ルートとなり、沿道はその宿場町として栄えた。
 更に徳川家光の1632年には関東代官によって現在の日本橋小網町までの水路(小名木川の原型)設置が許可されて江戸と常総・利根川方面との水運の中心地となった。
 下り塩(西国物)のうち苦汁分が多いものを行徳側が買い入れて囲塩に加工して北関東に販売し、また災害時における塩年貢の不足に備えて買い入れが行われたのである。こうした行為を本来経由地である筈の江戸の下り塩問屋を経由しないことから江戸打越と称した。関東地方に入る下り塩は原則として浦賀・江戸を経由することになっていたが、幕末には浦賀から行徳を経由する塩が全体の4割を占める時期もあった。 最後に残った塩田も1949年のキティ台風によって壊滅するに至ったのである。

利根川の舟運(明治期の利根川河岸)  
江戸期から明治期まで、物流を舟運に頼っていました。関東では利根川の舟運が盛んで、利根川の東遷による本流の銚子へ流したこともあり、千葉や北関東からの物資を江戸に運ぶ大動脈でした。
下図は明治末期、利根川の河岸を示します。「浦安」「行徳」の河岸がありました。

(原 高則 氏 「明治末期における利根川の舟運」(米の物流河岸)より抜粋)

 利根川・江戸川を下ってきた船は、遠浅の江戸湾を沖合までゆかずに、新川~小名木川~隅田川 と運河を通り、江戸の中心部へのルートが出来ていた。

(旧江戸川~新川~小名木川~隅田川 運河位置地図)

小名木川   ※wikipediaより転載
旧中川から隅田川を結ぶ運河で、途中横十間川、大横川と交差する。 小松橋と新扇橋の間には扇橋閘門が設置されており、閘門より東側は地盤沈下が激しくゼロメートル地帯の顕著な地域のため水位を1m下げている。

(小名木川全体の空中写真。西の隅田川から東の旧中川を直線で結ぶ。 (1984年撮影の6枚より合成作成)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
Onagi_River_Aerial_photograph_1984.jpg

歴史
 1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。
 そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。 塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。
 1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
 開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。
 明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」「小松川閘門」「船堀閘門」が設置されていた。
 昭和50年代には地盤沈下などにより閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。

新川 (江戸川区)   ※wikipediaより転載
 新川(しんかわ)は、東京都江戸川区を流れる利根川水系の一級河川である。中川と旧江戸川を結ぶ人工河川である。江戸時代には船堀川や行徳川とも呼ばれていた。
歴史
 新川は江戸時代に「古川」の流路を一部変更して出来た運河である。古川は古くからある自然の川で、東側は蛇行しており河川交通には不便だった。
 1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府すると、1594年(文禄3年)に利根川東遷事業を開始し、河川の改造を始めた。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに向かう家康を乗せた船が古川を通過したようであり、その際に座礁したという説もあるらしい。
 江戸幕府が成立すると、1629年(寛永6年)に三角渡し(現在の三角橋)以東を開削して、水路を直線化する工事を行った。
 最初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことだったが、1632年(寛永9年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになった。その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由し小名木川を通って江戸に向かうルートは、東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になった。旧江戸川の方が水位が高く無風時に船は遡れなかった為か、新川の川岸には味噌・醤油・酒を売る店や「ごったく屋」と呼ばれる料理屋が出来て、曳船する業者も居て賑わったと言う。 明治時代になると利根運河が完成し、蒸気船が運航を始めた。
 最初に登場したのは長距離路線で、内国通運会社の「通運丸」や「利根川丸」が東京 - 銚子間を一日2往復18時間で結び、成田参詣の客に人気となった。
しかし1895年(明治28年)に成田山の近くの佐倉まで総武鉄道が開通すると客を奪われ、1919年(大正8年)に廃止された。
 次に登場したのは短距離路線で、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始めて、浦安と江東区の高橋の間を往復した。