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史跡めぐり

古河市内歴史散歩

 10月23日(火)、史跡クラブ有志8名で茨城県古河市に出向きました。茨城はイバラギではなくイバラキといいます。(私は間違って最後を濁音で覚えていました・・・さて本題です)
 集合は現地”古河歴史博物館”駐車場です。3台の車に分乗し定刻前に集合、ボランティアガイドさんと共にいざ出発です。
 
 まずは古河歴史博物館です。建物は日本建築学会から公共建築賞を受けたという和風の外観で素晴らしいものです。
 最初にホールに設置されたストリートオルガンの演奏をしていただきました。このオルガンは幕末に古河藩家老だった鷹見泉石のオランダとのつながりから、開館と同時期にオランダから取り寄せたものとのこと。その音の大きさにびっくりでした。皆様には用心して聞くことをお勧めします。
 鷹見泉石の偉業、縄文海進時の貝塚、古河公方のこと、日本初の脳の解剖をした藩医河口信任が「解屍編」を「解体新書」に先駆けて出版したこと。藩主の土井利位(としつら)が老中等の重責を務めるかたわら、雪の結晶を観察し図説にまとめたことを知りました。又、江戸中期の地図に城の名前に「行田」との記載があり、当時の呼称が私の記憶にある「忍」との両方が使われていたことを知りました。
 そして、今は渡良瀬川の河川改修で古河城本丸は河川敷の中にあることを伺いました。
  
 (オランダ製のオルガン)   (窓からの景色)        (ガイドさんの説明を受ける)


 (歴史博物館の玄関前で集合写真。雨が降っています。☝クリックすると画像が大きくなります。)

 前日の天気予報では、夕方から雨が降るとのことでしたが、本降りになってきました。OさんとHさんが車から予備傘を取りに行き、配っていただきました。たくさんの予備が車にあることに感心しました。
 歴史博物館を出て、向かいの鷹見泉石記念館・奥原晴湖画室繍水草堂に入ります。記念館は泉石の最晩年の住まいを改修したものです。珍木「楓樹」や由緒ある石灯篭を観ました。押し入れがないことを質問し、管理人さんから説明を頂きました。
 繍水草堂は熊谷にあった南画家奥原晴湖の画室を移築・復元したものです。熊谷市のかつて上川上村は古河藩の領地だったとのことで、その関係で奥原晴湖は熊谷に居を構えたようです。だけど、終焉の地である熊谷に展示館が無いのが不思議です。
  
 (記念館玄関)        (記念館内部)         (画室繍水草堂)
 記念館を出て次の「古河文学館」に向かいます。この文学館も建築物はいろいろな賞を受け、大正ロマンの雰囲気があります。2階にはイタリア料理のレストランが併設されています。
 展示品を見入る前に、素敵なサロンで竹針を使った蓄音機によるSPレコードの鑑賞です。曲名はオペラ「マルタ」より”LAST ROSE OF SUMMER”、曲名を聞いてチンプンカンプンです。音楽が流れてきて、聞いたメロディー、そうです、和名”庭の千草”です。ひさびさのアナログ音源でソプラノに聞き入りました。 このSPレコード鑑賞会は毎月第3金曜日に行っているとのことです。
  
 (雨に煙る古河文学館)    (天井木組みと北面壁)     (ステンドグラスの玄武(亀)) 

 
 (蓄音機)         (サロンでSPレコードに聞き入る皆さん)

 文学館を出て、次の篆刻美術館に向かいます。そとはまだ雨が降り続き気温も上がらず寒いです。石畳や小学校の塀の柵には雪の結晶模様、余計寒くなりそうですが、古河藩主土井利位の偉業「雪華図説」をあらわしたものでした。
 篆刻美術館に到着です。篆刻(てんこく)とは、印章を作成する行為のことです。篆刻美術館は篆刻の魅力を紹介する日本初で唯一の専門美術館です。建物は大正9年に建造された石蔵を改修し、美術館として再生保存されたもので、国の登録有形文化財に登録されたものです。 白文と朱文の違いを知りました。小学生の上手な作品もあり、感心しました。食事の予約時間が迫っていて裏蔵は見られませんでした。
  
 (歩道路面の雪華模様)    (小学校の塀柵の雪華模様)   (篆刻美術館)

 昼食の予約時間がせまり、近道を通り、食事場所のホテルに向かいます。ホテルは杉並通りに面した場所ありました。中に入り事前に予約した料理は、ほどなく配膳され美味しく頂きました。食べることに集中したため、食べる前の料理画像は撮れませんでした。(^_-)-☆
 流行っているお店のようで、お客さんは、ご同輩と思える方たちが多くいらっしゃいました。
  
 (ホテルのレストラン)    (ホテルの中庭)        (食後のひと時)

 お腹を満たし、午後の部に入ります。先ずは午前中にパスした「永井路子旧邸」です。江戸時代末期の建造と言われていて永井路子さんが住んでいた当時に近い形で復元されています。、古い商家の蔵が店になった感じです。集合写真をガイドさんに撮っていただきました。
  
 (永井路子旧邸外観)     (ガイドさんの説明)      (内部、蔵の作り)


 (集合写真。☝クリックすると画像が大きくなります。)

 永井路子旧邸を出て、「正定寺」に向かいます。正定寺は江戸時代土時代の寛永10年(1633)古河藩主の土井利勝の創建で、寺の名前は「利勝山正定寺」となっています。土井家墓所があり、お参りしました。
 
 (正定寺)                            (土井利勝公 像)

 次もお寺で「隆岩寺」です。正定寺よりも時代はさかのぼり、安土桃山時代の文禄4年(1595)、古河城主・小笠原秀政が正室の父・松平信康を弔うために開基したとのこと。松平信康は徳川家康の長男でしたが、武田勝頼との内通を疑われ、織田信長の命により自害・非業の死を遂げています。 家系図でガイドさんに説明していただきました。
 
 (隆岩寺)                  (ガイドさんが家系図で説明)

 次に日光街道の史跡を訪ねました。古河は日光街道の江戸から9番目の宿場でした。旧城下の道を歩きます。鍵の手に曲がりながら続きます。歩くところ度々お寺に出会います、お寺が多いです。お寺と共に蔵も多く、往時の繁栄が伺えます。
「はなももプラザ」の山車を外部から見て、「日光街道道標」を見学。掘った文字の読み方で、ない頭を使いました。続いて高札場跡をみました。最終版のこのころに雨が上がってきました。
 最後に「坂長」です。江戸時代より両替商を経て、その後酒問屋として栄えた店で、現在はレストランを併設した土産物のお店になっています。
  
 (日光街道道標)       (高札場跡)          (坂長)

 土産物の御家宝とお店を変えて雑魚煮を確認し、各自お土産を買い、やり残しはありません。歴史博物館の駐車場に戻り、解散しました。盛りだくさんの内容で、この原稿を書きながら頭の整理をした次第です。参加された方、大変お疲れさまでした。 
                            (担当幹事:大森、池田)  池田 記