現在、彩の国いきがい大学熊谷学園2年制4期校友会は40名の会員が活動しています


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自然を愛する会



今回は近くても以外と知らない町への散策(古河市)を計画しました。関東の小京都と言われ歴史的な場所で桃祭りも行われています。春を体感するには最適でしょう!
                      記
1.期日 平成29年3月27日(月
2.高崎線乗車時刻
  ○行き:深谷駅発(8時58分)~籠原駅発(9時4分)~熊谷駅発(9時11分)
      ~行田駅発(9時16分)~吹上駅発(9時19分)~大宮駅(9時56分着、宇都宮線乗換)
      大宮(10時01分)~古河駅(着10時37分)
  ○帰り:古河駅発(15時32分)~大宮駅(16時10分)~高崎線乗換(16時16分)

 (古河公方公園マップ)

3.JR古河駅までの皆さん全員座席に座ることも出来、ゆったりした車内で世間話が絶えなく、あっちからも・こっちからも笑え声が絶えませんでした。
本日の参加者は12名(男性6名・女性6名
春雨とは言えず底冷えのする朝でしたが、皆さんからの元気を頂き駅から30分(約3㌔)古河公方公園まで傘を差しての散策です。
駅前ロータリーには桃の木が、万葉集に書かれている古河の地名刻まれた石碑が立っていましたが読めませんでした。
 
 (古河駅前に桃花が)             (万葉集の石碑)


 (古河歴史博物館入口)

 
 (古河城入口)                (古河公方公園に)

4.公園内の四阿で一休み、生憎の雨でお客さんはまばらでしたが、桃の花は満開です。
 
 (公園内四阿で)               (一休み)


 (古河公方公園の桃祭り)


 (桃姫)

5.昼食後、次に向かったのが 古河歴史博物館です。展示室にはいると、古河の歴史を紹介しています。
「古河」という地名は『万葉集』の歌に詠まれるほど歴史を持つ地名です。
室町から戦国時代には足利成氏をはじめ五代の古河公方が約120年にわたり居城し、東国の拠点となっていました。
奥原晴湖画室では明治24年(1891年)に熊谷に建設された、南画家奥原晴湖の画室を移築・復元した物が印象に残りました。

 (お食事処)


 (古河歴史博物館)

 
 (奥原晴湖)                 (奥原晴湖の画室を熊谷から移築)

6.帰り電車では、歩き疲れか話が少なかったようでした。元気で桃花が見られ楽しかった一日でした。

 (電車の中)

 
 (電車の中)                 (電車の中)

奥原晴湖画室「繍水草堂」
南画家奥原晴湖は、慶応元年(1865)以来、活動の場としていた東京上野の摩利支天横町の「墨吐烟雲楼」が、明治24年(1891)、鉄道用地となってしまい、旧古河藩領でもあった埼玉県熊谷へ新たな活動拠点をつくります。
これが繍水草堂。はじめ繍仏草堂、のち寸馬豆人楼とも称した画室です。この移転については、西欧文化の興隆の一方で、南画をはじめ東洋文化をかえりみない風潮を思ってとの諸説があります。
いずれにしても晴湖は中央画壇とは距離をとって、自らの画の道を志したのでしょう。大正2年(1913)に晴湖は没し、画室は主を失います。
そこで、晴湖のおいにあたる池田多喜雄氏によって昭和4年、誕生地である池田家の屋敷地内に移されました。平成20年、故奥原ミチ子氏の遺志により、奥原晴湖画室の寄附申し入れがあり、歴史博物館南側に移築いたしました。
昭和4年に古河へ移築されたのは、熊谷にあった画室の一部ですが、今回の移築工事にあたっては、すべてではありませんが、熊谷にあった当初のかたちをなるべく再現いたしました。庭石の一部に、古河城の礎石が再利用されています。 蔵では奥原晴湖と画室についてパネルで紹介しています。また、座敷はお茶会等に貸し出しをしています。 翌日 奥原晴湖の晩年に画室として使っていた、熊谷の地に散策してきました。
保存会の方々のご尽力により、立派な終焉の碑が立っていました。住所 熊谷市上川上592番地(熊谷総合公園の南側です)
 
 (晴湖の道の旗印)              (晴湖の道)

 
 (晴湖終焉の地)               (晴湖の掲示板)

今年度は計画どおり実行できることが出来ました。次年度も無理せず楽しく健康寿命を延ばしましょう。

                              担当記  原・新井 

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