現在、彩の国いきがい大学熊谷学園1年制37期校友会は69名の会員が活動しています。



(最終日も元気に   ☝クリックで拡大します)

クラブ活動 ”ハイキングクラブ”

「日光街道・今市宿から鉢石宿を歩く➪ 完歩しました


(スタートの浄泉寺)
 10月26日 第18回「今市宿~鉢石宿」 8名参加

 2018年7月第1回をスタートした日光街道歩きも本日最終回を迎えました。ゴールの日光東照宮を目指し、更には松並木の区間では食事処もないため早めの出発で皆さん準備致しました。
 日光市の朝は肌寒く、暖かい支度で宿を出て小倉町交差点を8時にスタート致します。
 最初に目の病を治す薬師如来と「そばを供えると夜泣きが治った」という「そば喰い稲荷」の浄泉寺。龍泉寺の社前には今市宿の北木戸があったそうです。

(そば喰い稲荷)               (瀧尾神社)

 ここから移築古民家(江連家)までの約900m杉並木街道と並行し杉並木公園があります。杉並木街道の保護と地域文化伝承の施設(杉線香製造の水車等)が建てられています。

(杉並木街道説明図)


(二連水車前で)


(杉並木を独り占め)             (移築古民家)

 この先街道には七本の杉の根幹が癒着した「七本杉跡」、戊辰戦役での砲弾が当たって破裂した「砲弾打込み杉」、杉並木オーナー杉(前回に説明)等見られます。

(七本杉伐採跡)               (砲弾打込み杉)


(足取りも軽く)               (杉並木オーナー杉)

 薬師寺の石塔、古道の分岐に勝善神・馬頭観世音・馬頭尊の石仏石塔群が。日枝神社の常夜燈・日光駅前の常夜燈は日光型と言われています。

(薬師寺石仏)                (石仏石塔群)


(「生岡山王」常夜燈)      (車道は危険でした)

 日光街道最後の「七里一里塚(35里目)」は宝殿交差点付近で位置は不明でした。筋違い橋の橋下(はしか)をくぐると麻疹が軽くすむといわれた「麻疹地蔵」。 この先JR日光線のガードをくぐると日光駅はすぐでした。JR日光駅前の常夜燈、日光駅貴賓室跡を見学しました。畠山重忠の子・重慶の創建の龍蔵寺。

(麻疹地蔵)     (JR日光駅前常夜燈) (龍蔵寺)

 「西行の戻石」がある稲荷神社には、「ながむながむ散りなむことをきみも思へ くろ髪山に花さきにけり 西行法師」の歌碑があります。

(稲荷神社)                       (西行法師歌碑)

 入江本陣は日光御宮御用達の菓子屋であったが現在は「そば処魚要」で、昼食を摂りました。創業天明七年(1787)の練り羊羹の老舗「綿半」。 高野本陣跡地には屋号がついた土蔵と芭蕉句碑「新うと木の下闇も陽の光」があります。「鉢石」は直径2mほどの石で、日光開山以来、旅人の道標となった。「鉢を伏せたような形状」が由来となり地名にもなっております。
 
(入江本陣跡は「蕎麦屋」)           (練り羊羹の老舗「綿半」)


(高野本陣跡に芭蕉の句碑)    (鉢石)

 神橋の手前には家康に仕え日光山の住職にり徳川家の為に尽力した「天海大僧正像」・日光のおいしい水といわれる「盤列霊水」、弘法大師空海の開基「観音寺」等があります。
 寛永13年(1636)架橋された「神橋」は将軍社参、勅使、例幣使等の参拝のみに使用され、将軍もここで駕籠から降り徒歩で日光山内に入りました。
 橋の手前には与謝野蕪村の句碑「二荒や 紅葉の中の 朱の橋」があります。日本橋から日光東照宮まで日光道中21次、36里3町2間(約142Km)の最終ゴールを目指し急な参道を登ります。 二日間の街道歩きで足取りも重く輪王寺を参拝して東照宮参道に14時20分到着。全区間完歩のゴールインです。

(神橋到着 ☝クリックで拡大)  (神橋  ☝クリックで拡大します)


(神橋をバックに ☝クリックで拡大)     (神橋上で  ☝クリックで拡大)


(輪王寺前で ☝クリックで拡大)       (東照宮参道ゴール)

帰路は神橋からバスで東武日光駅に。15時32分乗車、乗換2回で熊谷18時25分到着でした。
本日の歩行数は25000歩前後でした。天候に恵まれた2日間、お疲れさまでした。

                                   ハイキングクラブ 部長