現在、彩の国いきがい大学熊谷学園1年制39期校友会は57名の会員が活動しています。


史跡めぐりクラブ

秋の高麗神社巡り


雨天決行の案内ながら、予報より天候が持ち直していた9月18日(水)の朝、元気に待ち合わせの寄居駅に集合して、JR八高線の高麗川駅に向けて出発しました。
今回は直前のキャンセルもあって14名と今迄で一番少人数でしたが、巾着田の曼珠沙華もコースに入っていて、高句麗からの渡来人の郷の寺社巡りに期待しつつ、日差しの中を歩き始めました。

 (心配の天候が一転して日傘でスタートです)

高麗川に架かる出世橋を渡り、最初は「高麗(こま)神社」の近くの「聖天院勝楽寺」を訪れました。
緑濃い山の高台に建物が見えて、高麗王若光の菩提寺としての歴史を感じる雷門の前で記念撮影です。

(聖天院山門(雷門)              (門の前で記念撮影)
☝クリックすると拡大します。

階段を上ると中門があり有料拝観受付となりますが、殆どの人が上がって山水を取り入れた庭園と見晴らし台からの景観には納得でしたし、庭園内に黄色の曼珠沙華を見つけて思わずシャッターを切りました。

 (黄色い鮮やかな曼珠沙華)           (白い曼珠沙華)

鐘楼と並ぶ本堂も存在感があり、皆さんでお参りし、石灰岩が白く輝く「雪山」や若光王の「王廟」を訪ねた後に、今度は「白く咲く曼珠沙華」に出会いました。

 (本堂にお参りする皆さん)

続いて訪れたのは『高麗神社』です。元は高句麗国が唐と新羅に滅ぼされ、難を避けて王族や遺臣が我が国に亡命し各地に散在していたのを、大和朝廷が716年に関東・東海から1799人の高麗人を武蔵国に集めて、高麗郡を設けたのが当地の始まりで、その郡を治めて功績のあった高麗王・若光を祀ったのが高麗神社であると、二の鳥居と芳名板の前で社務所の担当者の方から説明を受けました。
特に強調されたのが、後に新羅滅亡後の朝鮮半島を統一した「高麗(こうらい)とは別の国」ということでした。狛犬は高麗(こま)から、人参は高麗(こうらい)と、区別する意識が必要と勉強になりました。

 (芳名板前で神社側の説明を聴く)☝クリックすると拡大します。

芳名版には「かの川島芳子」や「坂口安吾・檀一夫」「寺社建築で有名な伊東忠太」や芸能人等、興味深い名前が沢山ありました。
又社殿の扁額に「高麗の間に小さく句が入っていて」国を想う心が表れていると感慨深く感じました。

 (社殿の扁額に高句麗の文字が)

次は重要文化財に登録されている『高麗家住宅』です。若光から数えて60代続く高麗神社の神職を勤めてきた旧家は茅葺きの歴史ある趣きで、10月19日例大祭の獅子舞練習や集会にも使われ、傍の枝垂桜は春の季節に一見の価値ありとのことでした。

 (重文高麗家住宅前で説明を聴く)☝クリックすると拡大します。

印象に残ったのは、入り口に立つ一対の石柱碑で、朝鮮半島に伝わる魔除け将軍標(チャンスン)といい日本に渡ったものは「天下大将軍」と「地下女将軍」の男女対になっているとのことでした。

 (日本にはない男女対の碑が日高市内には散見とのこと)

昼食場所に引き返す道のりが思いのほか遠くて、駅からしばらく歩いて漸くたどり着いた感があり、少しローテンション?での、食事会でしたが、そのせいか午後の巾着田行きの雲行きが怪しくなっていました。

 (駅から又歩き続けて漸く昼食です、料理は美味しかったです)

というのも、巾着田の曼珠沙華開花が遅れて満開は一週間後以降という情報があり、雨模様の中無理に行くより、午後は中止にとの意見が多くありました。
結果的には駅に戻ってから、男子三名のみの決行となり寂しい道行きでしたが、確かに満開時ならさぞや素晴らしい眺めだろうと思われる曼珠沙華公園も、アスパラのような未開花の茎が林立する中、僅かに開花している箇所もあり、それはそれで情緒ある風景と思えました。

 (まばらな曼珠沙華の証拠写真?)
全体人数が減少している中で、史跡めぐりクラブも参加者が減り、団体扱いにならないグループ旅行的なものになっていくのかと、考えさせられる一面もありましたが、とにかく沢山歩いた一日でした。
参加の皆さんお疲れ様でした。
第三回の11月20日は、沢山の参加で賑やかに行きたいと思います。

                    第2班 澤井博保 篠田登茂子 記