ハイキングクラブ
日光街道・栗橋宿から間々田宿を歩く
4月14日 第8回「栗橋宿~古河宿」 10名参加
栗橋駅到着後、駅前の静御前の墓前で本日の行程・注意事項等のミーティングでスタートです。
ここには源義経の内妻として義経を慕い奥州・平泉へ向かう途中、久喜市伊坂の地で亡くなったと伝えられている静御前の墓がないことを哀れみ、中川飛騨守忠秀がこの地に建てたとものと云われているところです。
(静御前の墓) (栗橋宿旧商店)
栗橋宿は発掘調査等で当時の遺構等あまり見られませんでした。栗橋関所跡の碑、古民家、八坂神社は栗橋宿の総鎮守で洪水の際「御神体」を鯉が運んだと云われ、狛犬が「鯉」になっています。
(栗橋関所跡碑) (狛鯉)
(八坂神社で)
ここから利根川を渡り、8番目の中田宿に入ります。中田の関所・渡船場は寛永十年に栗橋に移され、大正元年利根川改修工事により中田宿場跡を含め移転とりそれぞれの説明版で表示されていました。
源頼朝が鶴岡八幡宮から勧請した由緒ある鶴峯八幡宮、静御前ゆかりの品が保管され、境内には芭蕉句碑「いかめしき音やあられのひのき笠」のある光了寺を見学、所在地不明の十五里目「中田の一里塚」を通過し進みます。
(鶴峯八幡宮) (光了寺「芭蕉句碑」)
「円光寺」「本願寺」「顕正寺」を過ぎ早めの昼食をうどん屋で。ボリュームある美味しいうどんランチに満足して午後のスタートです。ここから始まる「中田の松原」は枝ぶりも整えられ東海道にもない松並木と云われていました。「香取神社」「茶屋新田」を右に見て更に約2Km程歩き続け、台座に「関宿境道」と刻まれた十九夜塔、 古河第二高校の校内の片隅に江戸から十六里目の一里塚の木柱が、高校の隣の民家の玄関わきに「左にっこう 右みちのく」の道標が見られます。
(十九夜塔) (中田の松原)
原町口木戸跡は古河城下南口で「燈籠モニュメント」が立っています。ここから左奥へ入ると「日本三大長谷」の長谷観音、蘭学者・鷹見泉石晩年の住まい「鷹見泉石記念館」「歴史博物館」と続きます。古河城内唯一の遺構「乾門」のある福法寺、御馳走番所跡のある肴通りから本陣跡・高札場址を見て、最後に「永井路子旧宅」を見学し古河駅15時35分到着でした。
(原町の一里塚) (玄関脇の道標) (原町口木戸跡)
(長谷観音)
(鷹見泉石記念館)
(記念館内でひと休み)
(福法寺「乾門」) (本陣跡碑) (永井路子旧宅)
雨に降られず、寒くもなく無事歩き通せました。歩数計は18000~19000歩となっていました。
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5月12日 第9回「古河宿~間々田宿」 9名参加
前回ゴール地点「本陣跡」の石碑を確認しスタートです。街道を北に進むと常夜灯を兼ねた道標「左日光道、右江戸道」が見えます。 ここを左折、「曲の手通り」から「杉並通り」へ武家屋敷の面影をみて「よこまち柳通り」に戻ります。昔この辺りは旅籠・茶屋があったところです。 「はなももプラザ」では極彩色の龍や花をあしらった古河屋台(山車)の復元を見学しました。
(日光道中道標) (武家屋敷の面影)
(よこまち柳通り) (復元された山車)
北の出口「古河宿燈籠」をみて野木を目指します。塩滑地蔵菩薩の先に国指定重要文化財「野木町煉瓦窯」が街道から左奥900m先にあり、寄り道をし見学をしました。
深谷の日本煉瓦製造会社と同じ「ホフマン式輪窯」です。
(野木煉瓦窯で)
(煉瓦窯おまけ1) (煉瓦窯おまけ2)
ここから芭蕉句碑「一疋(ひき)のはね馬もなし河千鳥」がある野木神社へ。境内には望遠カメラを持つ人々が、フクロウの幼鳥を撮影しています。私たちは参拝し、句碑を確認して次に進みます。
(野木神社で)
(野木神社・芭蕉句碑) (境内にフクロウが)
「木戸跡」「本陣・脇本陣跡」では「野木宿入口」と本陣跡の塀前には「野木宿説明」板で確認できます。日本橋から十七里目の「野木一里塚」は民家の垣根の中に案内板が、更に「是より大平山」と刻まれた道標が。十九夜供養塔・馬頭観世音が並ぶ観音堂は野木宿の北出口でもあった。
(本陣跡に説明板) (「是より大平山」の道標)
食事処は何処も混んでいて遅くなったが13時過ぎに台湾料理店に入ることができ、廉価で満腹の昼食と休養で1時間を摂り出発です。最初に芭蕉句碑「道ばたのむくげは馬に喰われけり」が立つ法音寺に、日本橋から十八里目の「乙女一里塚」は西の塚が残っていました。
(満腹の昼食) (乙女の一里塚)
(法音寺「芭蕉句碑」で)
若宮八幡宮の大日如来坐像は江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため生地に安置されたもの。仏光寺・乙女八幡宮にも立ち寄り、最後に街道より左奥へ1Kmの思川船着き場「乙女河岸」に寄り道しました。
ここでは物資輸送の拠点として、又、関ケ原の戦いに臨む徳川家康は、ここから乗船して江戸に下ったと云われ、当時、大型の高瀬舟が江戸との行き来していたところです。
(若宮八幡宮「濡れ仏様」) (乙女河岸歴史公園)
(高瀬舟碑で)
本日のゴール地点間々田駅入口交差点へ、間々田駅の到着は16時10分でした。寄り道が多かったため、各人の歩数計は24000歩前後を示しておりました。
ハイキングクラブ 部長
4月14日 第8回「栗橋宿~古河宿」 10名参加
栗橋駅到着後、駅前の静御前の墓前で本日の行程・注意事項等のミーティングでスタートです。
ここには源義経の内妻として義経を慕い奥州・平泉へ向かう途中、久喜市伊坂の地で亡くなったと伝えられている静御前の墓がないことを哀れみ、中川飛騨守忠秀がこの地に建てたとものと云われているところです。
(静御前の墓) (栗橋宿旧商店)
栗橋宿は発掘調査等で当時の遺構等あまり見られませんでした。栗橋関所跡の碑、古民家、八坂神社は栗橋宿の総鎮守で洪水の際「御神体」を鯉が運んだと云われ、狛犬が「鯉」になっています。
(栗橋関所跡碑) (狛鯉)
(八坂神社で)
ここから利根川を渡り、8番目の中田宿に入ります。中田の関所・渡船場は寛永十年に栗橋に移され、大正元年利根川改修工事により中田宿場跡を含め移転とりそれぞれの説明版で表示されていました。
源頼朝が鶴岡八幡宮から勧請した由緒ある鶴峯八幡宮、静御前ゆかりの品が保管され、境内には芭蕉句碑「いかめしき音やあられのひのき笠」のある光了寺を見学、所在地不明の十五里目「中田の一里塚」を通過し進みます。
(鶴峯八幡宮) (光了寺「芭蕉句碑」)
「円光寺」「本願寺」「顕正寺」を過ぎ早めの昼食をうどん屋で。ボリュームある美味しいうどんランチに満足して午後のスタートです。ここから始まる「中田の松原」は枝ぶりも整えられ東海道にもない松並木と云われていました。「香取神社」「茶屋新田」を右に見て更に約2Km程歩き続け、台座に「関宿境道」と刻まれた十九夜塔、 古河第二高校の校内の片隅に江戸から十六里目の一里塚の木柱が、高校の隣の民家の玄関わきに「左にっこう 右みちのく」の道標が見られます。
(十九夜塔) (中田の松原)
原町口木戸跡は古河城下南口で「燈籠モニュメント」が立っています。ここから左奥へ入ると「日本三大長谷」の長谷観音、蘭学者・鷹見泉石晩年の住まい「鷹見泉石記念館」「歴史博物館」と続きます。古河城内唯一の遺構「乾門」のある福法寺、御馳走番所跡のある肴通りから本陣跡・高札場址を見て、最後に「永井路子旧宅」を見学し古河駅15時35分到着でした。
(原町の一里塚) (玄関脇の道標) (原町口木戸跡)
(長谷観音)
(鷹見泉石記念館)
(記念館内でひと休み)
(福法寺「乾門」) (本陣跡碑) (永井路子旧宅)
雨に降られず、寒くもなく無事歩き通せました。歩数計は18000~19000歩となっていました。
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5月12日 第9回「古河宿~間々田宿」 9名参加
前回ゴール地点「本陣跡」の石碑を確認しスタートです。街道を北に進むと常夜灯を兼ねた道標「左日光道、右江戸道」が見えます。 ここを左折、「曲の手通り」から「杉並通り」へ武家屋敷の面影をみて「よこまち柳通り」に戻ります。昔この辺りは旅籠・茶屋があったところです。 「はなももプラザ」では極彩色の龍や花をあしらった古河屋台(山車)の復元を見学しました。
(日光道中道標) (武家屋敷の面影)
(よこまち柳通り) (復元された山車)
北の出口「古河宿燈籠」をみて野木を目指します。塩滑地蔵菩薩の先に国指定重要文化財「野木町煉瓦窯」が街道から左奥900m先にあり、寄り道をし見学をしました。
深谷の日本煉瓦製造会社と同じ「ホフマン式輪窯」です。
(野木煉瓦窯で)
(煉瓦窯おまけ1) (煉瓦窯おまけ2)
ここから芭蕉句碑「一疋(ひき)のはね馬もなし河千鳥」がある野木神社へ。境内には望遠カメラを持つ人々が、フクロウの幼鳥を撮影しています。私たちは参拝し、句碑を確認して次に進みます。
(野木神社で)
(野木神社・芭蕉句碑) (境内にフクロウが)
「木戸跡」「本陣・脇本陣跡」では「野木宿入口」と本陣跡の塀前には「野木宿説明」板で確認できます。日本橋から十七里目の「野木一里塚」は民家の垣根の中に案内板が、更に「是より大平山」と刻まれた道標が。十九夜供養塔・馬頭観世音が並ぶ観音堂は野木宿の北出口でもあった。
(本陣跡に説明板) (「是より大平山」の道標)
食事処は何処も混んでいて遅くなったが13時過ぎに台湾料理店に入ることができ、廉価で満腹の昼食と休養で1時間を摂り出発です。最初に芭蕉句碑「道ばたのむくげは馬に喰われけり」が立つ法音寺に、日本橋から十八里目の「乙女一里塚」は西の塚が残っていました。
(満腹の昼食) (乙女の一里塚)
(法音寺「芭蕉句碑」で)
若宮八幡宮の大日如来坐像は江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため生地に安置されたもの。仏光寺・乙女八幡宮にも立ち寄り、最後に街道より左奥へ1Kmの思川船着き場「乙女河岸」に寄り道しました。
ここでは物資輸送の拠点として、又、関ケ原の戦いに臨む徳川家康は、ここから乗船して江戸に下ったと云われ、当時、大型の高瀬舟が江戸との行き来していたところです。
(若宮八幡宮「濡れ仏様」) (乙女河岸歴史公園)
(高瀬舟碑で)
本日のゴール地点間々田駅入口交差点へ、間々田駅の到着は16時10分でした。寄り道が多かったため、各人の歩数計は24000歩前後を示しておりました。
ハイキングクラブ 部長