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6班 個人投稿【ウズベキスタンへの旅】

 足腰が動くうちに遠方から、と1年に1,2回海外旅行をしてきました。これからしばらくは旅行どころではないでしょう。薄れ行く記憶を留めるために旅の記録を作っておきました。 印象が強かったウズベキスタンの旅をご紹介します。
 写真でしか見たことがない私の伯父は中国へ出征しました。お骨壷の中は戦死公報だけだった、と聞きました。23歳だったそうです。
 ウズベキスタンの旅はなにか相通じるものを感じました。

【ウズベキスタンへの旅】

 昨年の春、桜の蕾が和らぐ頃ウズベキスタンへ旅行をした。日本人にはあまり馴染みも関心もない国である。でも旅仲間や添乗員からもウズベキスタンの旅を何回か勧められていた。
  シルクロードの要衝の地として栄え、1991年旧ソ連から独立した。人口約3200万人、面積は日本の約1.2倍。成田から約9時間半かかる。
ウズベク人は稀に見る親日国家で、老若男女すれ違っただけで旧知の友人のように笑顔で会釈をする。 手を振って笑顔ですれ違う。 カメラを持っている事に気がつくと「撮って」。 撮影後カメラの画面を見せるとうれしそうに礼を言って手を振ってその場を去って行く。
300人を超える学生が日本語の教育を受けているそうだ。


~各地の観光の後、首都タシケントへ~

[日本人墓地]
 特急電車でタシケントへ下り立つとガイドさんは「まず日本人墓地へお参りしましょう!」
新市街のムスリム墓地の一角に、ソ連の捕虜となった79名の日本人が眠る、墓標と記念碑が 静かな環境にある。



(抑留者記念碑)拡大    (ホラームさん)

 墓守(ホラームさん50歳)
 日本人を埋葬した祖父の代からイスラム教徒の家族により守られている、3代目である。
涙雨というのだろうか、優しく降る雨の中を添乗員さんが用意したお線香を手向けた。手持ちの煎餅や飴を供えた人もいた。




 かつて、中山恭子さんと宮崎県とが中心となり全国から寄付を募り遺骨収集団が現地を訪れた。中山恭子さんは元参議院議員でウズベキスタンの特命大使だった方。
ウズベキスタン側は「この国に尽くしてくれたのだからこの国でお守りするのが当たり前」「終世この地でお守りします。」と。 日本人墓地はウズベキスタンに13ヶ所ある。
 中山恭子さん等は遺骨収集のために集められた寄付金を、13ヶ所の日本人墓地がある地域の学校に、日本製のパソコンや教材などを寄付されたとのこと。教育熱心なウズベク人はとても喜んだそうです。
 きれいに整地された墓地の桜は、日本から中山恭子さん等により運ばれ植えられたもの。1900本もの桜は中央公園、大統領官邸、ナヴォイ劇場などにも植えられた。
ソメイヨシノは満開でした。

 帰国後、荷物を解き、傘を広げると桜の花びらが一枚、畳の上にひらひらと・・・
何とも言えない、感動的な瞬間であった。

[日本人が建設に参加したナヴォイ劇場]

(ナヴォイ劇場)

 ナヴォイ劇場は、タシュケントにあるオペラとバレエのための劇場である。正式名称は、アリシェル・ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場。
 アリシェル・ナヴォイは、ウズベキスタンの伝説的な英雄で、文学、伝承でも度々取り上げられる人物。第二次世界大戦でソビエト連邦軍の捕虜となった旧日本軍の兵士が建設の仕上げを行った。
(ウィキペディアより抜粋)


(劇場建設にあたった日本人捕虜の功績をたたえた記念プレート)  (プレートの拡大)

 戦いに敗れても、日本人は誇りを失うことなく働いて立派な仕事を残しました。
ウズベキスタンの母親は子供達に「日本人捕虜のようになりなさい、人が見ていなくても手抜きをせずに仕事をする、素晴らしい民族だ」と。過酷な状況でも誇りを持って作業する日本人の姿に、捕虜なのにまじめに丁寧に仕事をする姿に心打たれたそうです。
気候は厳しく、夏は40℃近くまで、冬は-10度位にまでになります。熊谷の暑さなど比ではないでしょう。その捕虜生活は想像に絶します。

近くには日本庭園もありました。



 遠い祖国の山河に思いを寄せていることでしょう。

(余談)あまりにも桜が美しいことから「さくら泥棒」が出没。桜の木を根こそぎ持って行く人がいるという。日本から寄贈された桜を守るため「さくら番」がいて桜の木を保護してくれているそうです。

                                   記/ 6班 関川登美子

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