現在、彩の国いきがい大学熊谷学園2年制4期校友会は51名の会員が活動しています


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クラブ活動  ふるさと大発見クラブ

 
論語の里まち歩きツアー
                          の写真はクリックすると拡大します。

平成30年10月31日に活動しました。参加人員は9名でした。

〇論語の里及び論語の道について
1840年(天保14年)渋沢栄一が生まれた現在の深谷市血洗島と、10歳年上の従兄・尾高惇忠が生まれた隣の現在の深谷市下手計の一帯が「論語の里」で、 少年時代の栄一が惇忠の家に論語を習いに行った徒歩約2千歩(約1キロメートル)の道が論語の道と呼ばれています。

「論語の里」の場所(深谷市パンフレットより転載) 


「論語の道」の場所(深谷市パンフレットより転載) 

以下の順に「論語の里」歴史散策を行いました。

〇歴史散策:①渋沢栄一記念館→②青淵公園→③旧渋沢邸(中の家)→④諏訪神社→⑤八基小学校→
 →⑥鹿島神社→⑦尾高惇忠生家→渋沢栄一記念館

① 渋沢栄一記念館:1995年11月11日、栄一の祥月命日に合わせて開館されました。栄一の肉声のテープをはじめ写真などたくさんの資料が展示されていました。
 
(渋沢栄一像を背景に集合写真 )       (渋沢栄一記念館正面)

② 青淵公園:栄一翁の雅号を冠した公園で「渋沢栄一の言葉」のパネルが20枚あります。そのうちの1番目は、「短所は自然に消滅する(長所はこれを発揮するに努力すれば、 短所は自然に消滅する)」といったものでした。また青淵由来の跡の碑は昭和8年12月に昭和天皇の皇太子誕奉祝記念事業として八基青年団により建てられました。この碑の隣には青淵の由来となった池があります。
  

③ 旧渋沢邸「中の家」
明治28年、栄一の妹夫妻によって上棟された家で栄一が帰省の際に寝泊まりする特別な部屋が設けられていました。晩年は年に数回は帰郷していたようです。
 
(旧渋沢邸「中の家」)             (集合写真 

④ 諏訪神社:血洗島の氏神様であり伝統の獅子舞は有名です。大正5年に栄一の寄進により拝殿が完成しました。境内には渋沢清淵喜寿碑や渋沢父子遺徳顕彰碑などがありました。
 
(諏訪神社)

⑤ 八基小学校:屋上の校章はこの地のゆかりの藍にちなみ藍色に染められています。校歌は大正4年に制定され、作詞は青淵翁の長女穂積歌子によるものと記されていました。






⑥ 鹿島神社:下手計の鎮守で、青淵の母えい、はここ鹿島神社の欅の根本の井戸水を使い境内に設けられた共同浴場でハンセン病を患っている婦人の背中を流した。 青淵翁が終生慈善事業に貢献したのも母譲りの慈悲心によるものと言われています。
 
(鹿島神社)

⑦ 尾高惇忠生家:尾高惇忠は青淵翁と従兄の関係にあり10歳年上の論語の師です。雅号は藍香といい、維新後、官営富岡製糸場の初代場長を務めました。青淵翁の妻千代は惇忠の妹です。
 
(尾高惇忠生家)                (集合写真 

〇昼食後、更に栄一にゆかりのある建物を見学しました。
誠之堂と清風亭で、この二つの建物は東京・世田谷の第一銀行の福利厚生施設内にありましたが、 誠之堂は平成11年深谷市に移設され平成15年に国の重要文化財になりました。清風亭は平成11年誠之堂とともに深谷市に移設され、平成16年に埼玉県指定文化財になりました。

・誠之堂:栄一翁の喜寿を記念して当時の第一銀行の有志が建設したものです。誠之堂の命名は栄一自身によるもので「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」という儒教の経典のひとつにちなんだものです。
 
(誠之堂)

・清風亭:大正15年当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して誠之堂と並べて建てられたものです。 清風亭は当初は佐々木の雅号をとって「茗香記念館」等と称されましたが、後に清風亭と呼ばれるようになりました。
 
(清風亭)

                             ふるさと大発見クラブ 鹿沼淳史(記)
   

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