現在、彩の国いきがい大学熊谷学園2年制4期校友会は39名の会員が活動しています


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自然を愛する会

“都内特別名勝・特別史跡他庭園の散策と隅田川水上バスで浅草へ”

6月25日(日)、指定車両に乗車し、集合場所の京浜東北線「上中里」駅に向かいました。
天候は、梅雨空そのまま、午後からの雨が上がる予報を、期待しながらの始まりです。参加者は女7名、男5名で総数12名です。(幹事は“晴れ男”を自称していたのですが、参加メンバーに自他ともに認める“雨男と雨女の組み合わせ”がいました。このパワー、半端ネ~)
年間計画で、電車利用の行事とのことで、料金が安い土日の日程にしたのですが、東京なので距離が近すぎ、ホリデーパスの効果が無く、Suicaの利用となりました。
赤羽駅乗換で、上中里駅に到着。余り馴染みのない駅で、初めて下車しました。そうです。今回は、下見をしていないんです。しいて言えば、WEBでの“上見”だけ、経費節減です。
最初の訪問先“旧古河庭園”に傘を差しながら歩きます。ほどなく到着したのですが、開園時間より早く到着、設定時間より皆さんが速かったんです。トイレや乗換の移動時間を多く見ていたのですが、失礼しました。これほど、若々しく動くとは! (幹事は恐縮しながら小さくなっていました)しばし、門前で待ちました。
 

{“旧古河庭園”は、もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でしたが、次男が古河家の養子になったとき、古河家の所有となったものです。戦後、国から東京都が借り受け、一般公開されたものです。
武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘にには洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。
洋館と洋風庭園の設計は、英国人ジョサイア コンドル博士で、旧岩崎邸・ニコライ堂の設計もしています。日本庭園の作者は、京都の庭師植治こと小川治兵衛の手によるものです。}
以上、東京都公園協会HPより抜粋でした。


入ってすぐ洋館です。その前にバラ園と刈り込みの西洋庭園が眼下に広がります。6月も遅くなっていたのにバラが綺麗でした。
 



階段を下りてゆくと、そこは落ち着きのある、日本庭園です。
 

池を背景に集合写真です。丁度、雨が強まり、雨中散策の状況を表す一枚です。暗くて顔が見えません。良かったのか、悪かったのか?・・・(^_-)-☆。


雨の中、池の周りを散策しました。一周して、四阿で暫しの休憩をとり、次の訪問先に向かいます。 「西ヶ原駅」まで歩き、東京メトロ南北線に乗り、「後楽園駅」で下車しました。お上りさんの私は、初めての南北線です。深い駅です。深すぎて不快です。
地上に出て、駅近辺の喧騒を離れ“小石川後楽園”まで歩きます。
11:00前に“小石川後楽園”に到着。{“小石川後楽園”は江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後 れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。
庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
なお、当園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園と当園の二つだけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけです。}以上、東京都公園協会HPより抜粋です。
 

{“小石川後楽園”は江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後 れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。
庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
なお、当園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園と当園の二つだけです。
全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけです。} 以上、東京都公園協会HPより抜粋です。


一人150円の入園券を購入、無料ガイドの集合場所を確認したところ、雨の日は実施しないとのこと。ガーン(*_*;  仕方ないと諦めていたところ、裏にいたガイドさんにやり取りが聞こえた模様で、屋根の下の雨の当たらないところでなら説明してくれるとのこと。有難く説明をお聞きました。メンバーを見たところYさんがいません。携帯で連絡したところ、OKとのこと。しかし、待てど戻ってきません。再度連絡すると、道を間違えて・・園内をウロチョロ・・。(^◇^)
 

受付の方のお話を伺い、ボランティアガイドは5名の団体から対応するとのこと、私は入場料の団体扱い20名と同様と勘違いし、20名に満たないため、一般と一緒にガイドを受ける計画にしていました。独りがてんの判断ミスでした。これも勉強です。説明を聞き終え、園内散策に向かいます。
大きな池が広がっています。松が綺麗でした。
 

池(大泉水)の周りをまわります。未だ雨は止みません。モネの絵を見るような水蓮が浮かぶ内庭の池です。
 

敷石は雨で滑りやすくなっており、ガイドを中止するわけも納得です。庭の中は広く、迷路の様で、途中皆が小さなグループに分かれてしまいました。
ほぼ一周して、説明にあった、未だ見ていない円月橋や通天橋を探します。地図と看板を頼りに、やっと円月橋にたどり着きました。
通天橋は遠くから見えましたが、遠回りになる道が想像され、渡るのを諦めました。他の方は渡ったようです。
 

雨が上がってきました。お腹が減ってきました。計画では、公園内で弁当を食べることにしていたんですが、女性陣より異論が出て、自由昼食に変更しました。
予約等ない仲間内の行事ならでは、良いところでしょう。東京ドーム近辺に移動、食事後に集合する時間を決めて、一時解散です。
東京ドームでは巨人・中日戦が予定されていて、ジャイアンツのユニホームを着た人たちが沢山集まっていました。
男性陣は、ドーム前広場でビールとツマミを購入し、喉を潤し、食事をとりました。今回は、なぜか全員愛煙家の集まりになっていました。もちろん、座った場所は喫煙席です。
 

集合時間が近づいた為、早めに切り上げ集合場所に集まります。集合後に写真を撮りました。皆さん、食事後の満足顔です。
次の目的地に向かい地下鉄で移動します。「新橋駅」で下車、地上に上がったつもりが未だ地下2階、綺麗な娘さんに道を教えて頂き“浜離宮恩賜庭園”にたどり着きました。 後楽園での出発が遅かったせいで、到着はガイドの始まる14:00少し前になっていました。急ぎ入園料を150円で購入します。
入口でボランティアガイドの方が、丁度、集合を呼び掛けていました。雨が上がり、ガイドを実施していました。手ごろな人数なのか、私たちだけのグループ分けをして頂きました。
隅田川水上バスの出発時間を告げ、それに間に合うルートにして頂きました。感謝_(_^_)_です。
 

{“浜離宮恩賜庭園”は、潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この潮入りの池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。
この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至りました。
なお、国の文化財保護法に 基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。}
以上、東京都公園協会HPからの抜粋です。


三百年の松や白河城にもあった多行松など、素晴らしく手入れが行き届いた植栽に感激です。
 

敷地が広いです。途中ガイドの方から、クイズが出て、過去に象がいたことを、見事いい当てたHさんは、象のストラップ?を頂き、知識が役に立ちました。潮入の池に向かいます。
背景にビルが無ければもっと素晴らしい景色です。だけど、大都会の喧騒の中に残る、この風景が貴重さを象徴していていいのかも・・・。




鴨場です。今回の散策でA部長がご所望だった“巣鴨”の“鴨”だけは叶えることが出来ました。
昔のカモ猟の仕方の説明を受け、感心すると同時に、昔も大都会であった江戸城の傍で、猟ができる贅沢をしていたんだ、と感心です。条件反射用の板を打ち鳴らし、納得顔です。
 

東京湾に面した“将軍お上がり場”を通り、水上バスの発着場に到着です。
今回の切符で最高金額になる、水上バス浅草行き切符740円を購入します。一服し暫しの休憩の後、赤い船が桟橋に横付けされました。
 


船に乗り込み上段の階に席を取ります。船は水門をくぐり、海に向かって行きます? そうなんです、この船は下りの船で、一旦、折り返し地点の日の出桟橋に行くのです。どうりで、航行時間が浅草までにしたら、時間が掛かるのが理解出来ました。マ~、遊覧の気分ですので、乗船時間が長くなるのは、得した気分です。


日の出桟橋を出発し隅田川を上っていきます。右手に佃島、左手に今話題の築地、勝鬨橋をくぐり、聞いたことのある橋々を通過していきます。岸では夫婦連れ?と思われる方がジョギングをしながら、手を振ってくれています。
いつも地上を電車で移動しているのと、頭の中の地図が違った感覚になります。船の中は、外国の方が半分以上を占め、少し日本人が控えめな感じ、面白い感覚です。
ほどなく、終点の浅草に着きました。某飲料メーカーのビルのウ○コのモニュメントが載っています。隣の金色をしたビルの壁面に、東京スカイツリーは写り込んでいました。


桟橋では外国人向けの演出であろう、忍者が迎えてくれました。乗船する外人の観光客がたくさん並んでいます。
 

地上に上がり、お茶休憩をしようとのことで、お店に入り休みました。喫煙組とクリーン組に分かれます。
 

せっかく、浅草に来たとのことで、仲見世を通り、観音様にお参りをしてきました。
 



浅草で夕食を摂ろうかとの相談。しかし、つい最近、飲み過ぎて記憶をなくした御仁もおり、食べると飲むので・・・取りやめとなり、健康的に上野へ地下鉄で直行、上野から皆さん座って早く帰れました。
二つの特別名勝・特別史跡を含む合計3か所の公園を巡りました。移動に電車を使い、出来るだけ徒歩を少なく計画しましたが、日ごろドアツードアの車生活と違い、電車移動は思いのほか乗換や駅までの歩きが多く、結構な歩数となりました。
反省として、盛沢山になった感が拭えず、訪問先に時間をたっぷりとって、満喫したかったです。それほど、素晴らしい各公園でした。又、集合写真を忘れてしまい、まともなものが、東京ドームになり、素晴らしい公園でのものが残らなかったこと、皆さんに紹介できなかったことです。(*_*;

                      担当幹事 原、池田  記/池田