現在、彩の国いきがい大学熊谷学園1年制37期校友会は91名の会員が活動しています


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史跡めぐり



5月9日(火) 今日は男性5名女性11名計16名の参加です。吉見百穴。箭弓稲荷神社、岩殿観音、埼玉ピースミュウジアム、丸木美術館とちょっと欲張りな史跡見学です。
午前中は東松山の観光ボランテアのガイドの先導で出発です。
吉見百穴の近くに岩室観音(吉見観音)があります。松山城の下の崖に建立されており、京都・清水寺と同じ懸け造りであり、四国八十八か所めぐりと同様の利得があるという。


吉見百穴は1300年前に使用されていた横穴墓群で明治20年に発掘調査が行われ、その穴は現在確認できているのは219個である。
正面から見たその穴の大きさや並び方など現在のマンションに似ているような気もする。なお、その一つの穴には国指定の天然記念物のヒカリゴケがある。
また、戦時中は横穴墓群の地下に軍需工場として左右にそれぞれに500mの地下道が彫られ、現在もその面影を残している。


箭弓稲荷神社の歴史は古く、創建は712年(和同5年)と伝えられている。この地方を野久ケ原と言われており名称由来は次のとおりである。
「平安時代の中頃下総の国から武蔵の国川越に勢力を伸ばした平忠常を倒すため、朝廷は源頼信に忠常追悼を命じた。源頼信はこの地に本陣を張り野久稲荷神社に戦勝祈願したところ、明け方の空に箭(矢)の形をした雲があらわれ、その箭は敵を射るかのように飛んで行った。
これを神のご加護と奮い立ち、合戦に向かいそれからの激戦に勝った源頼信は、戦勝報告を野久稲荷神社に行い、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、名称を箭弓稲荷神社と呼ぶように里人に命じた」(箭弓稲荷神社御由緒より)




箭弓稲荷神社は、建物の彫刻等には金箔などは無く妻沼の聖天様と比較すると地味な感じであるが、存在感を十分に示している。全員でお参りし、記念写真のあとは、ボタン園で藤の花とつつじを見て後岩殿観音へ。






岩殿観音(正法寺)では、樹齢700年のイチョウの木が出向かえてくれた。坂東札所10番として知られ、観音堂や鎌倉時代末期の銅鐘や六面幢等の史跡も多かった。
何よりも印象に残ったのは、石段の上からかつての門前市を偲ばせる家並みが続いており、その素晴らしさに感動しました。




次は、埼玉県平和資料館(埼玉ピースミュージアム)です。平成5年に戦争のむなしさを展示品等により知っていただき、平和を語り継ごうと設立した施設である。
展示品のほかアニメによる「熊谷の空襲」(今回観賞せず)等が上映されおり、国民学校の教室や空襲時の警報や防球壕への避難等の疑似体験をした。また、この施設には展望台があり、海抜150mからの展望は素晴らしく関東一円をはじめ360度の眺望は素晴らしかった?
しかし、当日は雲が多く遠くは見ることができず少々残念でした。




最後は、原爆の図丸木美術館です。
広島出身の丸木夫妻が原爆の投下された数日後に駆けつけ、そこで目のあたりにした惨状の記憶や被爆体験者の証言をもとに描いたものである。
描かれたその絵は1作品が美屏風4枚にも及ぶ作品であり、その迫力には圧倒されました。いずれにしても世界が平和であることを願うばかりです。




今回は東松山を中心とした史跡めぐりでしたが、昼食は地元のうどん屋になりましたが美味しくいただき、また帰りにはタケノコを買っていく人もでて、和気あいあいの楽しい1日でした。

                       幹事 平川隆夫・大木てる江・大柿代子