現在、彩の国いきがい大学熊谷学園2年制5期校友会は40名の会員が活動しています


ふるさと5・つむぐ会

渋沢栄一・論語の里
栄一は江戸時代末期(天保11年)深谷市血洗島に生まれた。幼少期に論語をはじめとした学問を学んだ。
明治維新後 実業界で470社の株式会社、銀行などの設立、経営指導に尽力し、500以上の慈善事業にも関わり、近代日本経済の基礎を作った。
学問の師、従兄の尾高惇忠の家まで通った道が「論語の道」と呼ばれるようになった。
栄一は当時 政界や軍部が大きな顔をするなか、実業界が力を持たないと国の富は形にならないと考えた。
一方、富・利益を追求するあまり、その欲望の歯止めも必要と考えていた。中国の孔子とその弟子たちの言行録『論語』の教えを規範として実践、行動した。

◆尾高惇忠◆
渋沢栄一の師、従兄にあたり、栄一は幼少時代から、惇忠の元に通い、論語をはじめ 多くを学んだ。
栄一の人生に大きな影響を与えた人物。
明治政府の下で富岡製紙工場の建築資材の調達、工女の募集などに尽力。設立後初代工場長を務めた。
散策で廻ったところ
○鹿島神社
旧下手計村の鎮守で、拝殿には渋沢栄一が書いた「鹿島神社」の扁額がある。現在は朽木となった大欅がある。その根元に神水の湧く井戸もあったそうだが、今はそちらも枯れている。
境内に尾高惇忠の偉業を称える石碑が建立されている。
○尾高惇忠生家
菜種油の商いをしていたので「油屋」という屋号で呼ばれた。この家から、渋沢栄一の妻の「ちよ」見立て養子となった「平九郎」、富岡製紙場伝習工女 第一号「ゆう」が育った。
母屋の裏に日本煉瓦製造(深谷市上敷免)の煉瓦を使った立派な煉瓦造土蔵が残っている。

 (尾高惇忠生家内ガイドさんから説明を聞く)


 (煉瓦造土蔵)

○旧渋沢邸・中の家(なかんち)
栄一の生地。現存するお母屋は明治28年に栄一の妹夫妻によって上棟された家。高窓のある2階立ての養蚕農家であるが、栄一が帰省の時に泊った奥座敷の部屋は2階部分がなく、静かな環境が提供された。

 (旧渋沢邸・中の家 正門)

○青淵公園
深谷の冬の定番メニューの煮ぼうとうを青淵亭でいただいたのち、「渋沢栄一の言葉」がパネルで設置されている青淵公園を散策した。

 (青淵公園 散策)

○渋沢栄一記念館
平成7年11月11日の栄一の命日に合わせ開館。栄一の書、手紙、写真、年譜などの資料が多数展示されている。
戒名「泰徳院殿仁智譲青淵大居士」がその活躍、偉大さを象徴していると学芸員の方より説明があった。東京谷中霊園に15代将軍・慶喜の墓 近くに埋葬されている。
渋沢邸があった東京飛鳥山の渋沢史料館と谷中霊園の墓は必見、つむぐ会で来年 訪問を企画したい。
◆渋沢平九郎◆
尾高惇忠の末弟で渋沢栄一の見立て養子。栄一がパリ万博親善使節で渡欧する際、万が一のことがあった場合、自分の生家を継いでほしいという願いから「見立て養子」を平九郎に頼んだ。


{平九郎ぐみの木伝説}
徳川幕府が大政奉還を行った事を不服とした「彰義隊」に参加。さらに彰義隊内の意見の対立から、これを脱退、穏健派の「振武軍」に加わった
のちに飯能で官軍と闘った乱戦の中、単身ふるさとを目指して逃走。越生黒山の地で敵兵に遭遇、最後は大岩に座して切腹して果てた。
時は慶応4年、明治と改元されるまであと4か月、平九郎22歳の若さで生涯を終えた。その自害地に自生のぐみの大木があり、赤い実が自決の場所を覆い尽くすようになるという。
自決所在地は埼玉県入間郡越生町黒山



クリクラ本庄工場見学
宅配水を生産から、倉庫格納まで全自動化された工場を見学。特にガロンボトル16万本を自動格納できる設備は圧巻。その格納キャリヤーの動きと速さにはおどろかされる。
○水ギャラリー
世界47か国の水約2000本を集めたギャラリーを見学。3名のコンシェルジュにより、それらのユニークなボトルデザイン、世界の水事情などが紹介された。

 (コンシェルジュによる世界の水ボトルの紹介)


 (クリクラ本庄工場入口で記念撮影)

         ふるさと5.つむぐ会 第4回お出かけ、2016年11月2日  記  黒澤

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